農地は農地のまま譲渡できない。できるんだけど農業委員会が難癖付けて許可しない。
で、農地転用なら速攻で許可が出るから、住居地や雑種地にして売る。
”
kiyo:
Some neighbors got to decorating today for Halloween. Thought I’d get into the spirit. Mac-O-Laterns (via Bad Banana Blog)
from an aisle (via (ku)nihito)
stones in my space (via (ku)nihito)
このクラゲは、これまでベーリング海などで十数匹しか見つかっておらず、和名もなかった。同機構が、傘の中の赤い膜の形がちょうちんに似ているため、「アカチョウチンクラゲ」と名付けた。 (via まるで「居酒屋の赤ちょうちん」、幻の深海クラゲ確認 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞))
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8割くらいでやめる。完璧を目指さない。
8割やるのに必要な時間と労力を1とすると、残り2割を埋めるのには
最低でも、もう1必要となる。2やっても完全に埋まらないこともある。
1の労力で8割になるか7割になるか、それ以下になるか・・・そこは人による。
手を抜けるところは手を抜く。
ただし、クリティカルなところだけは絶対に手を抜いてはいけない。大変なことになる。
ちなみにこの考え方は学生時代に指導教官に教えられた。
”関連して印象的なのは、中国文学者・竹内好への弔辞の一節だ。「竹内さんは戦後の『魯迅』の中で、傷を信じることを書きました。……傷の中には今を生きる力がある」
鶴見さんにとって傷とは? 「おふくろがまず私に傷を与えた。86年ゆっくり展望してみると、この傷は恩だったと思う」
”これは「春日鹿曼荼羅」。
鎌倉時代の作だが、神仏習合の最も顕著な例として考えられる。神鹿の背に神木である榊に支えられた大きな円形の鏡が描かれている。この鏡は「春日大明神」の御正体であるが、ここに五体の仏菩薩が描かれている。 文殊菩薩、釈迦、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音の五体である。これらの仏菩薩はそれぞれ若宮、一宮、二宮、三宮、四宮の本地仏である。
「本地垂迹」とは、日本の神は、仏(本地)が衆生を救済するためにこの世に現れた姿であるとする考え方で、仏を神の上位とするものである。中世には これに反して神を本地とする「反本地垂迹説」も出て来たが、片側をもう片側の仮の姿であるとする点で思想的には同じ形式をとる。ヨーロッパ等でギリシアの 神々がキリスト教では異端とされた点とはまた異なる。そのところは日本独特の流れとなっている。
この「春日鹿曼荼羅」と細見美術館所有の「春日神鹿御正体」の像、両者とも美術的にも非常に美しいものである。垂迹美術の逸品として心に残った。
このように、日本においては「神」と「仏」は日本人において「習合」という形で解釈され、我々の生活・思想のベースとなってきた。日本人の知恵およ び特性がこのような形態をとってきたのである。異なった考え方、思想を受け入れる精神的な懐の深さを持ってきたのが我々日本人であると思う。しかしこの頃 の状況を見るとその特性も薄れて来たのかなと思えて来る。文頭でも述べた様に、仏教伝来以降の大きな思想の伝来は戦後の民主主義であり、平和憲法であると 思う。その辺が最近の状況を見ているとどうもおかしな方向にむかっているような気がする。「神仏習合」という先人の考え方をここででもう一度考えてみる事 は、現在にも通じる事であると思う。
麻生首相が19日、東京都新宿区でスーパーを視察した。「物価の話とか品切れの話とか、値段が同じだけど量が減ったとか、現実にどうかなと関心があった」という。財閥一家で育っただけに、市井の暮らしを肌で感じたかったようだ。
鮮魚や冷凍食品などを15分ほど見て回り、「最近バター品切れらしいけど、今日はあるね」「(実質的な値段が)3割上がったの?」。視察後は記者団に「パスタとかは値段は同じで量が減り、魚は値段がほとんど変わっていない。ものによって違う」。
首相はこのあと、都内の帝国ホテルで秘書官と夕食をともにした。
”The City Wakes
A Tribute to Syd Barrett
Cambridge / October 22nd - November 1st. 2008
Informazione gente, altrimenti qui va tutto a puttane.Grazie.
(Chinese Proverb)
I’m thirsty!
(via onemoretimewithfeeling)
(via noahkai)
(via shesapsycho)
(via vesi)
(via siddman)
とにかくモノ・感覚・知覚、みーんな実体がないわけだから、生まれもしない滅びもしない、汚くもならない浄くもならない、増えもしない減りもしない、当たり前の話だゴルァ。
実体がなく変化も無いんだから、縁起なんて表面的なこと、実体など無いわけでして、無明がどうとか老死がどうとか、もう言うだけ無駄。悟りとか悟りを得るってことも無かったわけだ。
”すごく不思議に思うのです。「1,000人もいる会社なんだから、他の部署のことは分からない」をエクスキューズにするなら、その10倍の規模のある企業をなぜ一言で断罪できるのでしょうか。いつもやってますよね。
「IT ゼネコン」を批判する言説を取るのであれば、同じ批判が自分に向かった時には、それを受け入れる必要があるのではないでしょうか。
自分は好き放題言っておきながら、他人に言われたら自分は知らない自分のせいじゃない、という理屈は如何なものでしょう。そういうのを「ダブルスタンダード」と言うのではないのでしょうか。